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寛永寺(台東区)根本中堂

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写真: 寛永寺(台東区)根本中堂

写真: 10.11.11.寛永寺(台東区)了翁禅師塔碑 写真: 寛永寺第二霊園(台東区)より

mixiアルバム「上野山3 寛永寺」コピペ――
https://photo.mixi.jp/view_album.pl?album_id=500000005453559&owner_id=32815602

2010年12月04日 14:40
10.11.11.
●江戸にあった徳川家の菩提寺のうち、増上寺は中世から存在した寺院だったが、寛永寺は天海を開山とし、徳川家により新たに建立された寺院。徳川家康・秀忠・家光の3代の将軍が帰依していた天台宗の僧・天海は、江戸に天台宗の拠点となる大寺院を造営したいと考えていた。
そのことを知った秀忠は、元和8(1622)年、現在の上野公園の地を天海に与えた。当時この地には伊勢津藩主・藤堂高虎、弘前藩主・津軽信牧、越後村上藩主・堀直寄の3大名の下屋敷があったが、それらを公収して寺地にあてたのである。秀忠の隠居後、寛永2(1625)年、3代将軍家光の時に現在の東京国立博物館の敷地に本坊(貫主の住坊)が建立された。この年が寛永寺の創立年とされている。当時の年号をとって寺号を「寛永寺」とし、京の都の鬼門(北東)を守る比叡山に対して、「東の比叡山」という意味で山号を「東叡山」とした。
※根本中堂が落慶したのは開創から70年以上経った元禄11年(1698年)、5代将軍綱吉の時。現在の上野公園大噴水のあたりにあり、重層入母屋造、間口45.5メートル、奥行42メートル、高さ32メートルという壮大な規模のものだった。中堂前には方形に回廊をめぐらし、正面に唐門が設けてあった。

●桁行(間口)、梁間(奥行)ともに七間(17.4m)、前面に三間の向拝と五段の木階、背面には1間の向拝があり、周囲は勾欄付廻縁をめぐらしているが、背面の廻縁は中央間の左右に木階を設けて、基壇面に降りるようになっている。
正面中央の三間等は桟唐土、その左右二間等は蔀戸、背面の中央間以外等は板壁となり、すべて素木のままである。
屋根は入母屋造、本瓦葺、二重たるきとし、細部の様式は和様を主とする。内部は内陣が土間で、外陣と同じ高さの須弥壇を設け、その上に本尊その他の仏像を安置している。
この内部の構造は中堂造と呼ばれ、天台宗独特のものである。現在は仮の床が張られ、内外陣共にすべて畳敷になっている。
慶応4(1868)年、現在の東京博物館前の噴水池あたりにあった旧寛永寺の根本中堂等が上野戦争の兵火に焼け、寺は現在地に移り、明治12(1879)年埼玉県川越市の喜多院の本地堂を移したのがこの本堂で、寛永15(1638)年の建造のようだ。
本尊の薬師如来三尊立像は、国重要文化財の指定を受けている秘仏である。
(他所様コピーm(_ _)m)
●近世を通じ、寛永寺は徳川将軍家はもとより諸大名の帰依を受け、大いに栄えた。ただし、創建当初の寛永寺は徳川家の祈祷寺ではあったが、菩提寺という位置づけではなかった。徳川家の菩提寺は2代将軍秀忠の眠る、芝の増上寺(浄土宗寺院)だったのである。しかし、3代将軍家光は天海に大いに帰依し、自分の葬儀は寛永寺に行わせ、遺骸は家康の廟がある日光へ移すようにと遺言した。その後、4代家綱、5代綱吉の廟は上野に営まれ、寛永寺は増上寺とともに徳川家の菩提寺となった。当然、増上寺側からは反発があったが、6代将軍家宣の廟が増上寺に造営されて以降、歴代将軍の墓所は寛永寺と増上寺に交替で造営することが慣例となり、幕末まで続いた。
※徳川将軍15人のうち6人(家綱、綱吉、吉宗、家治、家斉、家定)が眠っている。厳有院(家綱)霊廟と常憲院(綱吉)霊廟の建築物群は、旧国宝に指定されていた貴重な歴史的建造物であったが、昭和20(1945)年の空襲で大部分を焼失。かろうじて焼け残った建造物が重要文化財に指定され、一般公開はされていないが、厳有院霊廟の勅額門は、外の道路から見ることができる。

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