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谷中霊園(台東区)松本良甫(りょうほ)墓

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Photos: 谷中霊園(台東区)松本良甫(りょうほ)墓

Photos: 谷中霊園(台東区)松本善甫(よしいち)初代~6代墓 Photos: 谷中霊園(台東区)佐藤泰然墓

mixiコメントコピペ――2011年01月18日 23:49
●松本良甫(りょうほ)――幕府御典医、蘭方医師。名、載。字、成伯。通称、寅三郎、良順のち良甫。号、護斎。福島県会津出身。父、代々の会津神職。幼くして父を亡くし、修学に苦労する。
佐藤泰然と親交を結び、泰然紹介で高野長英・足立長雋(ちょうしゅん)に蘭学と医学を学ぶ。貧しい中、長崎で蘭医ボンベに蘭方を学ぶ。
天明6(1786)年幕府奥医師(祖父)善甫が改易。
天保10(1839)年幕府に奉仕。
弘化3(1846)年8月3日松本家を再興。
嘉永2(1849)年12月16日寄合医師。また、同年友人で佐倉藩藩医で順天堂を創った佐藤泰然の子(次男)良順を養子とする。
安政5(1858)年大槻俊斎らとお玉が池種痘所設立に参画。
同年10月16日吉田収庵とともに奥詰医師製薬所掛となる。
文久3(1863)年11月9日奥医師。
4(1864)年2月18日法眼。高野長英が窮乏したとき援助し、江戸で開業させる。
維新後、陸軍軍医総監。72歳死去。
父は"町医者の良甫"とする説があるが、町医者の良甫が没したのは1826年であり、当良甫が20歳の時に当たる。"幼なくして父を亡くした"とする説と矛盾する。

●松本銈太郎(けいたろう)――化学者。父、松本良順。佐藤泰然の孫。
12歳で父に従い長崎に行き、オランダ人ボードインにオランダ語、洋算、医学などを学ぶ。ハラマタからドイツ語、化学を学ぶ。
14歳の時江戸に帰り、開成校ドイツ語助教。
15歳で再び長崎に行き、化学者のハラマタから化学を学ぶ。
慶応3(1867)年 ボードウィンがオランダに帰国の折、開成校は緒方洪庵次男の緒方惟準(これよし)と松本銈太郎を同伴し、ユトレヒト大学に入学させた。
維新で帰国させられ、明治元(1868)年「大坂舎密局」を開校、助教授となり、オランダからハラタマ(Gratama)を教頭とし招聘、22歳の三崎嘯輔と19歳の松本銈太郎を通訳として講義し、実験もした。
明治4(1871)年21歳でまたドイツに留学し、ベルリン大学でホフマン氏に近代化学を学び、有機化学の権威となる。
明治8(1875)年日本人で初めてドイツの化学界の機関誌に論文を発表。
留学7年にして病気となり帰国、すぐに死去。29歳。

●松本善甫(よしいち)――代々奥医師。代々法眼。6代目町医者に堕ちる。7代は個別墓。



mixiコメントコピペ――2013年04月28日 19:41
2011年01月18日 23:29記事個別化

(おまけ?ついで?)
●松本良順――
佐藤泰然2男。外務大臣の林董は5男。幕医松本良甫養子。幼名は佐藤順之助。
幕臣。初代陸軍軍医総監、貴族院勅撰議員。男爵。
明治4(1871)年に従五位に叙せられた後、松本順と名乗る。号は蘭疇、楽痴。
天保3(1832)年6月16日、江戸麻布生まれ。
安政4(1857)年閏5月18日、長崎伝習之御用を命じられ長崎へ。オランダ軍医のポンペに医学等の蘭学を学ぶ。
文久2(1862)年閏8月8日、奥詰医師兼医学所頭取助。
3(1863)年12月26日、奥医師兼医学所頭取。
元治元(1864)年5月9日、法眼に叙せられる。
同年6月1日、奥医師解任、寄合医師に。
同年8月15日、奥医師再任。将軍侍医を務め、家茂の治療を。また新選組局長の近藤勇と親交があり、隊士の診療も行っていた。
慶応4(1868)年戊辰戦争。歩兵頭格医師として幕府陸軍の軍医、次いで奥羽列藩同盟軍の軍医。会津戦争後、仙台にて降伏。戦後一時投獄されるが赦免され、山縣有朋などの薦めで軍医総監となる。
明治40(1907)年死去。享年75。墓所は神奈川県大磯町の妙大寺。
親交のあった近藤勇・土方歳三の供養塔を、新選組二番隊組長でもあった永倉新八に請われ建立。
神奈川県大磯町を海水浴が最適な別荘地として開発。
牛乳や海水浴などの普及を行った。
09年現在、日本で唯一「征」の字を使用している日本医薬品製造社製の征露丸に当人の顔写真がロゴとして使用されている。

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